北欧でうどん打ち。

久々に出汁を取りたくなった。

同時に うどんを久しく食べていないことを思い出す。 当然ながらスウェーデンにはうどんは売っていないので、自分で手打ちする意外に手はない。そして、これがなかなかに美味いものを作るのが難しいのだ。

さて、これは再び遡ること約2週間前のお話。住居を失いかけて、ギリギリ首の皮が繋がった頃のこと…。

というより、依然としてpersonnummer関連での進展は全くない訳で事態は特に好転しているわけではない。そろそろボスも休暇から戻ってくる頃だろうし、隣国がバケーションに入ってしまい、宿泊施設も満杯の今日このごろ。ボスが帰ってきた後にも間借りするというのは、お互いに色々な意味でよろしくないので何か対策を考えなければならない…。

さて、というわけで、僕は現状そもそも休暇中のボスの家を借りている身である。

そんな状況にも関わらず、ボスの家に移り住んだその週末。どうにも衝動的にうどん打ちをしてみたくなってしまったのである。もちろん、うどんを打つ習慣があるわけなどなく、小学校のころの林間学校を除けばこれが正真正銘初めてのうどん打ちである。

では、なぜ うどんを打とうと思ったのか…。それは僕自身にもわからない。

ただ、そこに誰にも邪魔されることのない広い台所とパン捏ね台があり、前日に椅子の上に置いていたスーパーの買い物袋の中から小麦粉の袋が顔を覗かせていたというだけのことである。

しかし、一度首をもたげた衝動を収めるというのは、存外骨が折れる。そこで、僕は無駄な抵抗をすることなく、正直に衝動の波に従うことを選んだのである。文字通り、粉ひとつなく片付けることを一人虚空に誓って…。

そうして、いそいそとうどん打ちの準備を始めた僕は、早々に一つの壁に突き当たる。それなりに育ちが良い僕としては、口に運ぶものを足で踏むということに若干の抵抗感を覚えたのだ。

もちろん足で踏まずともうどんは捏ねることができるらしいのだが、やはりコシのあるうどんは存分に足で踏み捏ねるものと古今問わず相場が決まっている。

抵抗感を押し殺すかのように靴下に足を通した僕は、意を決して袋に入れたうどん種を思い切って踏んでみたのである。足裏に感じるなんとも言い表し様のないその奇妙な感覚に、次第に抵抗感も溶けていく。やめ時も分からないまま踏み続けること10分ほど…。踏み誤り袋が破けたところで足踏みを止める。

“捏ね”が終われば、お次は”切り”である。

生地に打ち粉をして綿棒で伸ばした上で、何重かに畳んで包丁で細切りにしていく。なるほどなかなか楽しい。そして、なるほど…麺切り包丁の存在というのは重要なのだな、と実感する。やはり道具は適材適所、必要だからこそ生み出されているわけだ。

さて、何がもっとも楽しいのかというと、切り分けていくうちに 麺の本数がある程度の本数になったところで、クルクルっとひねり巻いて一つかみの量にしていく作業である。

これがまた えらいもので、出来いかんによらず、非常に仕上がりよく見えるのである。

そうして、見た目だけはなかなかのものに仕上がった人生(ほぼ)初のうどん。

いざ実食に入ると…。まあ、これがなかなか悪くない。

ただ、当然ながら日本で食べるものとは、だいぶ異なる。うどん云々の前に、そもそも水が違うので思うような出汁を取るのも難しいのだ。日本で出汁をとっていたのと同じようにしてもやはり風味がまるで違う。

うどんの打ち方は言わずもがな、出汁の取り方もまだまだ勉強が必要なようである。

ちなみにスウェーデンの卵はサルモネラフリーなので生で食べることができる。つまり、米さえ炊けば卵ご飯も食べることができる(醤油は広く流通している)のである。

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